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日航機墜落事故についての思い

 

転載:心に鈍く突き刺さった記事

 

読者の皆様へ。

 

鈍く心に突き刺さったこの記事を敢えて転載させて頂きます。

 

幅広く知って頂きたい事実がある。

 

正直にニュースを受け取って頂きたくない。

 

事件の裏には消された真実捻じ曲げられた歴史が存在する事も有る。

 

私は全部を理解したわけではありません。

 

ですが、悔しいです。

 

悔しいです・・・・

 

どうする事も出来ない事です。

 

私の生まれる前のお話ですから。

 

ただ、だからこそ広く色んな世代に読んでもらいたい。

 

疑って直視したあなたの眼で歴史の陰謀に理解を進めて下さい。

 

この事件の背景には

 

「プラザ合意」

 

が絡んでいるんじゃないか?

 

とも言われている。

 

・・・・・・・・

 

取り合えずお読みください。
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日航機墜落事故から33年(この記事では31年)

 

読者の皆様へ

本日は日航機123便が御巣鷹の尾根に墜落し、多数の乗客乗員がお亡くなりになった日です。

 

520名の乗客乗員の他、軍関係者を中心に知られざる多くの命が失われたことが、これまでの調査により判明しています。

墜落推定時刻は18時56分。僅かでよいので、この時刻にお心を御巣鷹の尾根に向けてください。

 

そして二度とこのようなことが繰り返されないようお祈りください。

どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

ブログ「(新)日本の黒い霧」
管理人 日月土
——————————————————-

31年前の8月12日、私は小型バイクに乗り東京から長野県松本方面に向かい甲州街道を北上していました。

 

夜少し暗くなり始めた頃に目的地に到着したところ、出会った知人からいきなり

 

「日航機が行方不明になったようだ」と告げられました。

 

その晩、知人宅のテレビで事の成り行きを見守ることになるのですが、その時は多く方々と同じように、たいへんな事故が起きたものだと思っていました。

■今でも忘れられない異質な報道

テレビでは、番組中に流れるテロップや臨時ニュースなどで行方不明機の墜落地点が段々と特定されていくのですが、

 

その時に墜落予測場所が2転3転し、情報が錯綜していたのをはっきりと覚えています。

 

日航機関連情報が相次いで報じられる中、今でも忘れることのできない異質なニューステロップが流されました。

「日航機の救助に向かおうとしていた自衛隊員が射殺された」

後にこの報道は誤報として否定されるのですが、救助に向かった自衛隊員が何で射殺されなければならないのか、

 

誤報だとしてもあまりに突飛な話であり、こんな誤報がなされること自体が当時の私には理解不能でした。

■南相木小学校に集結していた自衛隊

同機墜落後も多くの生存者がいたことを証言されたM氏ですが、実はもう一つ重大な事実を証言されています。

 

テレビ報道では未だに墜落地点が判明していなかった頃、M氏はバイクで通りかかった長野県側の南相木小学校のグランドに、自衛隊の部隊が集結しているのを目撃しています。


図1:南相木小学校の位置関係
(赤:南相木小学校、青:墜落現場、楕円:予想主戦場)


写真1:南相木小学校正門

M氏が現場を目指して南相木村の林道終点地点から入山したのが午後9時頃ですから、自衛隊の集結を目撃したのはそれより前ということになります。

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まさに一般報道で墜落地点が不明だと大騒ぎしていた頃です。そして、何より不思議なのが、南相木小学校への部隊展開については、公式記録に残されていないことです。

墜落地点も分からない状況下でそこそこの規模の部隊を展開するのは、普通では考えにくいことです。

 

もっとも、この証言だけではその部隊が日航機の救助が目的だったかどうかも分かりませんが。

 

少なくとも、自衛隊は南相木村の山間部に関わる何か重大な情報を掴んでいたことだけは類推できます。

本ブログでは米国軍・旧ソ連軍が123便事件に絡み現地に展開し、

 

ごく短時間ではあっても交戦状態が発生しただろうとの説をとっています(詳しくは過去記事をお読みください)。

 

そして、その主戦場となったのは、墜落地点(御巣鷹の尾根)の西側に続く南相木村の山間地域であり、現在は山ごと土砂が取り除かれ、

 

大規模地下施設である東京電力神流川揚水発電所の一施設である南相木ダムとなっている一帯と推定しています。


写真2:現地で回収した米国U-2偵察機の破片


写真3:現地で回収した旧ソ連Mig-25の破片
米ソ共に当時の高等戦略機を配置している。この早い展開は
事前に日航機撃墜計画を探知していたからこそ可能だった?

南相木小の非公式展開部隊は、当初から救助目的などではなく、

 

これら初期戦闘行動に呼応したものであると解釈するのが、最も合理的な説明なのではないかと思われます。
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■偽装自衛隊員と生存者への殺戮行為

123便事件関連記事を書いていて、最も気が滅入るのが生存者に対する非道な行為の数々です。

 

その詳細は「闇夜に蠢く者ーM氏の証言」中に示唆されているだけでなく、M氏の証言を裏付けるように、実際に墜落現場で軍用毒ガス瓶を回収していることが全てを物語っています。


写真4:現地で回収した軍用毒ガス瓶

ここで、昨年の記事「あれから30年、真実が語られる時」に掲載した墜落現場での救出作業中の写真を再掲します。


写真5:昨年掲載した写真

ここに映っている自衛隊員の襟元に注目してください。


写真6:全員襟のエッジが張っており、襟章が縫い付けられている。

隊服は全員同じように見えます。ところが、次の写真7を見ると、写真5と少し違うことに気がつきます。


写真7:別の隊員の写真

ここでまた襟元に注目します。


写真8:襟元の比較

①の人物は写真6と同じように襟のエッジが張り、襟章が確認できます。

 

②の人物については襟元の確認はできませんが、肩の位置といい、袖の長さといい、服装自体が全く身体に合っていないのがわかります。

 

この隊員は普段からこんな不格好な隊服を着用していたのでしょうか?③の人物については襟章がなく、左側(向かって右側)のエッジが湾曲しているように見えます。


写真9:子供を抱え上げる隊員

写真9は、抱えられた子供がこの時生きていたのではないかとネット上で騒がれたものですが、

 

隊員の襟元に注目すると、襟章はなくエッジのたわみもはっきりと確認できます。


写真10:陸上自衛隊正規品のジャンパー襟元

ここで、全く同じ隊服ではありませんが、比較のために陸上自衛隊正規支給品のジャンパー(写真10)の襟元を見てみます。

 

襟がたわまないよう、襟の裏にしっかりと縫製がなされています。

 

念のため服飾の専門家に、これら以外の写真を含む現場隊員の隊服を見ていただいたところ、

 

明らかに、他と比べ粗雑な縫製の隊服を着た隊員が混じっているとのコメントをいただきました。

これはどういうことでしょうか?私は、あまりに急な出来事だったため、

 

偽装自衛隊員へ正規品の支給が間に合わず、サイズの確認もままならないまま、粗雑な急造品が宛がわれたのだと推測しています。

 

また、隊服が異なる者同士が集団で行動していることから、正規の隊服を着ていたとしても、それが必ずしも正規の自衛隊員であるとは限らないことを意味すると捉えています。

偽装自衛隊員については、123便事件について鋭い分析を著した角田四郎氏の「疑惑」(1993 早稲田出版)に、

 

「大きな石の裏に、着替が詰められた袋が10数人分隠すように置かれていた」という著者本人の証言とも符号します。

では、昼間に堂々と現れたこの偽装自衛隊員は悲惨な墜落現場で何をしていたのか?これについては、

 

M氏の証言に現れた暗視スコープを着用した(見た目)自衛隊員の集団とほぼ同じ目的であっただろうと推察されます。すなわち

(1)不都合な破片の回収と隠蔽
(2)生存者(事件の目撃者)の抹殺

の2点です。認めたくないことでありますが、上記写真が撮影されてることから分かるように、

 

既にマスコミや地元警察、消防団など大人数が現場で活動している最中、彼らは目立たぬよう不都合品の回収や、

 

生存者の抹殺を行っていたと考えられるのです。そうであればこそ、最初は7人と報道された生存者が、最終的に4人となったことにも合点がいきます。

 

そして、その4人(全員女性)は、みな地元消防団員によって発見されています。

 

衆人環視の中でおそらく彼らも手を下せなかったと考えれば、極めて辻褄の合う話です。


写真11:救出された川上慶子さん(当時12歳)。
彼女の周りに写っているほとんどは上野村消防団や機動隊員であり
(偽装)自衛隊員ではない

写真5、7を見れば分かるように、この自衛隊員たちは、右の胸ポケットに隊服が肩からずれ落ちるほど、重く厚みのある長方形様の何かを忍ばせています。

 

私の信頼する筋からは、それが「反応型炭素菌カプセル」との情報を得ていますが、本当に炭素菌かどうかは確認する術がありません。

 

しかし、反応型の有毒物である可能性は極めて高いと考えられます。

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反応型とは、使用者に害が及ばないよう、また証拠にならないよう、単体ではそれぞれ無害のA剤、B剤を、人体に投入する直前に反応させ、毒物として使用するというものです。

彼らは一人の生存者(事件の目撃者)も残したくなかったはずですから。

■なぜ生存者(事件の目撃者)を抹殺しなければならなかったのか?

常識的に物事を考えるならば、衆人環視の下でリスクを犯してまで生存者を殺戮するなどあり得ないことです。

 

これを逆に考えると、リスクを犯してでも生存者が見たものを絶対に世に出してはならないとする、隠蔽側の強い意志を感じます。

それでは、「世に出してはならぬ秘事」とはいったい何だったのか?

 

日本国内における米ソの軍事衝突?日本政府、警察や正規自衛隊を超越する闇組織(コードネーム「クロカモ」)の存在?それもあるのでしょうが、

 

ここまでやる理由としてはまだまだ弱いと言えます。

私はすでにその答に辿り着いていますが、事件から31年経過した今でもその情報を全て開示するのは時期尚早であると考えています。

 

もったいぶってるようで申し訳ありませんが、その答に至るに必要な予備知識を本ブログ伝えていきますので、ぜひ今後もご愛読のほどをお願い申し上げます。

どうしても答の片鱗が知りたい方は下の写真12をよく見てください。

 

墜落現場で回収した物の一つで、以前にも掲載したのですが、彼らが隠さなければならない何かの意味が、全てこの中に集約しています。


写真12:墜落現場回収物

* * *

本文で偽装自衛隊員という言い方をしましたが、ならば自衛隊は無罪であると言ってる訳ではありません。

 

特別権限を有する超法規組織の言いなりとなり、この世の非道に手を貸したのは隠しようのない事実だからです。

 

日本国民を守るという当初の誓いはいったいどこに消えてしまったのでしょうか?

冒頭で「射殺された自衛隊員」報道に触れましたが、私は、この話が事実であり、そしてこの隊員こそ命を掛けて国民を守ろうとした本物の自衛隊員であると信じたいです。

 

123便事件から31年が経過しましたが、今からでも遅くありません。真実を国民に伝えて欲しい。真実を語り許しを求めるならば、私はその方を全力で守りたいと思っています。

大君の千代よぶたづの一声に御池の鴨も夢さますらむ (昭和十年 貞明皇后)

遠つ祖霊の始りの地より
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証言者の証言

 

生存者証言です。

 

落合由美さん メモ書き・遺書:白井まり子さん、河口博次さん・・・・

 

 

奇跡的に生存した4人のうちの一人、川上慶子さんは当時12歳でした。

川上慶子さんたちは家族4人で北海道旅行へ行った帰りの便で、大阪の親戚宅に寄るため羽田空港へ戻り、キャンセル待ちののちJAL123便に搭乗しました。

この墜落事故の時の様子を、当時の川上慶子さんはこう語っています。

川上慶子さんの証言
・気が付くとまっくらで、あたりには油のにおいが漂っていた。
・子供の泣き声をはじめ、乗客のざわざわとした声が聞こえた。
・手足を動かすと、足の下に空間があり動かすことができた。
・自分の体を触って確かめると、欠損個所はなく、自分は生きているのだと感じた
・自分以外の家族は生きているか確かめるため、名前を呼ぶと父親と妹が返事をしたが、母親からの応答はなかった。
・父親に手足を動かすよう言われ、動かしてみると靴が脱げそうになったため、手を足へとのばしたところ、足首がぬるぬるとしていたため、血だな、と思った。
・父親が右わきから下半身にかけて乗りかかっており、身動きが取れない状態だった。無理に動こうとすると、自分の腹部がとても苦しかったため、

「お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い」と言っているうちに、父親は動かなくなってしまった。
・妹に聞くと、母も父も冷たくなって死んでいると言った。
・その後妹と話をしていると、妹が突然苦しみだした。その後妹はゲボゲボと吐くような声を出し、会話が途絶えた。
・一人になってしまったという思いを抱き、明朝まで意識が消えたり戻ったりした。

 

川上慶子さんは墜落事故当時のことをこのように証言しています。

この証言から当時の川上慶子さんらの様子をはじめ、各乗客のすさまじい状態が思われます。

この後、救助された川上慶子さんは、そのときの様子をこう語ります。

川上慶子さんの証言
・ヘリコプターのパタパタという音によって意識が戻った。
・目の前を遮っていた飛行機部品の間から日本の木が見え、光が差し込んできたことに、生きていることを実感した。
・なんとか外に出て、発見されるように努力したが、試行錯誤しているうちに部品がずれ落ち、顔と部品との隙間が狭くなった。
・「中学になってから慶子は根気が亡くなった」という日ごろから言われていた言葉を思い出して頑張って脱出を試みた。
・人の気配がし、「生きている人は手や足を動かして」と声がしたため、足を動かすと救助の人が近付いてきた。ぼさぼさの頭とショートパンツで勘違いされたらしく、

「男の子だ!」と言われた。

 

日航機墜落事故生存者のその後・現在を追う! 川上慶子さんの現在

出典: http://www.geocities.jp

墜落事故の後、慶子さんは祖母と兄との三人で生活していました。

 

彼女の周りには励ましの声とともに、好奇心からくる迷惑行為も殺到していたといいます。

 

ストーカーまがいの行為や、嫌がらせの電話が頻繁にかかってくるなど、そのような行為に長年苦しまされたようです。

そのような状態が10年近くも続き、川上慶子さんは「こんなことをされるのならあのとき家族と一緒に死ねばよかった」と漏らすこともあったそうです。

しかし、そのような行為にも健気に耐え続け、保健師だった母親の遺志を継ぎ、川上慶子さんは看護師となります。

兵庫県の病院で働き始めた川上慶子さんは、1995年の阪神淡路大震災でけが人の手当てに当たりました。

その後趣味のスキューバダイビングのために訪れたアメリカで、川上慶子さんは運命の人に出会います。

その人とは2002年に国際結婚を果たしました。

事故後数年間、川上慶子さんは飛行機に乗れなかったそうですが、今では乗ることができるそうです。

 

しかし、事故の話をするとなるとPTSDの症状が出るため、やはり今も川上慶子さんの心の傷は癒えてはいないようです。

 

日航機墜落事故生存者のその後・現在! 落合由美さん

出典: http://www.huffingtonpost.jp

日航機墜落事故の際、アシスタントパーサーをしていた落合由美さんは、当時私用で日航機123便に乗っていました。

日航機墜落事故で生き残った川上慶子さんら4人のうちの一人です。

事故のあと、落合由美さんは一度日航で事故関連の仕事についていたようです。

その後落合由美さんは定年となり、日航を退職し、おそらく主婦として生活しているといわれています。

落合由美さんはメディアに顔を出すことがほとんどなかったため、その後の消息があまりつかめません。

しかし、落合由美さんの行動も真っ当なものなのです。川上慶子さんのようにインタビューを受けたせいで、その後嫌がらせを受けた生存者の方もいらっしゃいます。

そう考えると、取材を受けない落合由美さんの行動も至極正しいものだと思われます。

落合由美さんの生活に平穏が訪れることを願ってやみません。
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中曽根総理の対応

 

調べてみました。

 

一説によるとこうです。

 

日航機墜落事故は米軍機の誤射によるもので、それが漏れ伝わると日米安保の存続にかかわると判断した中曽根総理が、

 

事故発生直後米軍機が上空を旋回し、30分後には墜落現場を特定していた横須賀米軍の救出要請を断り、

 

事実関係につながる証言を発する可能性のある生存者が全員死ぬのを待っために、故意に自衛隊の救出活動を明け方まで遅らせたのではないかという説がある。

 

中曽根総理が「事実は墓場まで持って行く」との言葉があったやらなかったやら、色々と言われていますね。

 

あぁ・・・・

 

これが事実に異ならないなら私は悔しくて仕方がありません。

 

歴史を、事実を、真実を教えてくれ・・・
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